セ・リーグ初の捕手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を … また、NPB公示については、NPBの公式WEBページを基準とします (https://npb.jp/announcement/ )。ただしオフシーズンの移籍に関する扱いに関しては例外措置を設けます, 横浜DeNAベイスターズの選手一覧(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズのせんしゅいちらん)は、横浜DeNAベイスターズ(前身を含む)に所属している選手・監督・コーチの一覧である。, プロジェクト:野球#FA移籍、トレード、FAに伴う補償として移籍が決まった選手の所属球団記載について, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横浜DeNAベイスターズの選手一覧&oldid=80447273. 日本のプロ野球選手一覧 > 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 登録選手・指導者などのNPB球団所属記載に関する注意 日本野球機構(以下「NPB」とする)所属の各球団に登録している選手・指導者の所属を編集する際は、以下の基準を満たすまで 絶対に編集しないでください 。

大矢 明彦(おおや あきひこ、1947年12月20日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(捕手)・監督、野球解説者。, セ・リーグ初の捕手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。, 早実高では1964年、2年生の時に、前年春の選抜で準決勝進出を果たした[1]織田和男、新藤克己の両投手とバッテリーを組み、夏の甲子園東京都予選に出場。優勝候補と目され決勝に進出するが、修徳高のエース成田文男に抑えられ敗退。翌1965年夏の都予選準々決勝では萩原康弘一塁手、原田治明外野手のいた荏原高に延長15回サヨナラ負け、甲子園には届かなかった。この予選の4回戦では、投手として都立大附高からノーヒットノーランを記録している。高校の1年上に織田、新藤の他、一塁手の内田圭一、同期に遊撃手の荒川(当時は出沢)尭がいる。, 卒業後は駒澤大学へ進学。東都大学リーグでは1年上のエース野村収とバッテリーを組み、1968年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で田淵幸一らのいた法大に敗れ準優勝。しかし翌1969年には、エース佐藤道郎を擁する日大に春秋季連続優勝を許す。リーグ通算94試合出場、326打数84安打、打率.258、12本塁打、53打点。ベストナイン4回(捕手3回、一塁手1回)受賞。大学同期にヤクルト入りした内田順三外野手がいる。, 1969年のドラフト7位でヤクルトアトムズに入団。1年目の1970年シーズン中に当時の正捕手加藤俊夫が交通事故を引き起こし、球団から出場停止処分を受けたこともあり、以後レギュラーとしてマスクをかぶる。1971年には初の規定打席(23位、打率.231)に到達し、オールスターゲームでもファン投票で初出場を果たす。1978年には正捕手としてヤクルト球団初のリーグ優勝に貢献。4月5日の阪神タイガース戦では代打で古沢憲司からサヨナラ本塁打を打っている[2]。阪急との日本シリーズでも全7戦に先発出場し24打数6安打4打点1本塁打を記録、投手陣を好リードしチームを日本一に導く。1980年には打率.283(16位)の好成績を残した。, しかし1981年に故障して膝に水が溜まるようになってからは攻守両面で大きく成績を落とし、1983年には同じ年に高卒で入団した八重樫幸雄に正捕手の座を明け渡した。翌1984年からコーチ兼任となり[3]、1985年に38歳で現役を引退した。医者から「これ以上やったら50歳で歩けなくなりますよ」と言われたことで決断したという[4]。, 引退後、日本テレビ系列の解説者に内定していたが、松園尚巳オーナーの鶴の一声で[5]1986年から1992年までフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ専属評論家として活動。その傍らでフジテレビ系『ものまね王座決定戦』の審査員も長く務め、現役時代を知らなかった、もしくは野球に興味を持っていなかったお茶の間の視聴者にも大矢の名前と顔が広く知られた。1991年オフに日本ハムファイターズの監督の要請を受けるが交渉が難航し就任に至らなかった[6]。, 1993年から1995年まで横浜ベイスターズのバッテリーコーチを務め、谷繁元信を徹底的に鍛え上げて一流の捕手へと育てた[7][8]。1996年、前年度チーム16年ぶりの勝ち越しを決めながらも退任した近藤昭仁の後任として横浜の監督に昇格。1年目は春先は好調も、最下位だった阪神タイガースに1ゲーム差と迫られる、同一リーグ全球団負け越しを喫する5位と、完全最下位寸前の成績に終わる。2年目の1997年にはマシンガン打線を擁し37年ぶりのリーグ優勝に迫るシーズン2位の成績を残すも、同年シーズン終盤、野手チーフコーチの弘田澄男の解任を示唆された[注 1]ことで球団と対立し、監督を辞任した。, その後、1998年から2006年までフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、サンケイスポーツ評論家として復帰(実は1998年オフ、野村克也のヤクルト監督退任時に後任候補として名が挙がっていたが「教え子たちと戦う事は辛い」として辞退)。, 2007年、横浜の監督に再び就任。1年目はシーズン4位の成績を残すも、翌2008年は優勝した巨人に36.5ゲーム差、5位ヤクルトに19ゲーム差も離されるなど開幕から最下位から抜け出せないままシーズンを終了。2009年も開幕からチームは6連敗をするなど、37試合を終えた時点で13勝24敗と最下位に低迷。同年5月18日をもって無期限休養[9]に入り、シーズン終了後、正式に退任した。, 2010年から再びフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者を務めている。また、「サントリー ザ・プレミアム・モルツ ドリームマッチ」でモルツ球団に相対するチーム「ドリームヒーローズ」のゼネラルマネージャーを務めている[10]。, 二女の大矢陽子は、2004年から2005年に横浜ベイスターズの2代目オフィシャル・リポーターを務めていた。, それまでの「太め、鈍足」という印象のあった捕手像とはそぐわないスマートな身体・甘いマスクの持ち主で、「鉄砲肩の殺し屋」[11]と称された球界一とも言われる強肩を武器に、長く正捕手として活躍[12]。球審の特徴や癖を把握してゲームに活かすのが上手く、松岡弘、安田猛などヤクルトの投手が活躍した陰には、大矢の功績が大きいと言われる[13][14]。, 第1期では三塁手として3年連続でゴールデングラブ賞を獲得していた石井琢朗を遊撃手に、遊撃手だった進藤達哉を二塁手に、二塁手だったロバート・ローズを三塁手へと入れ替える、(一塁手の駒田徳広以外の)内野総コンバート策を打ち出したり、当時手薄だった先発陣を増強するために、リーグを代表する中継ぎエースであった盛田幸希を先発投手に転向させ、先発・中継ぎ・抑えと便利屋的な役割を担っていた五十嵐英樹をセットアッパーに固定した。石井は遊撃手としてのチーム歴代最多出場記録を残す遊撃手に成長したものの、進藤は遊撃手とは異なる二塁手の逆スローの動きから腰を故障をして早々に戦線を離脱。ローズも三塁でエラーを多発したため5月末にはレギュラー不在の二塁手に戻り、復帰した進藤は空いた三塁に入って、実質石井と進藤の入れ替えという形になった。また、五十嵐のセットアッパー転向は成功したものの、盛田の先発転向は成功しなかった[注 2]。, 1996年は、前年に先発ローテーション投手に二けた勝利投手が1人もいなかったという状況から、先発投手陣に完投を求め、完投数はリーグ2位の25を記録した[注 3]。特にエース格の斎藤隆には延長戦を1人で投げさせるなど11完投をさせている。しかし完投こそ増えたものの失点はリーグワーストの660点を記録し、チーム防御率も同じくリーズワーストの4.67と、前年度の4.37よりさらに悪化した。, また第1期は、コーチ時代からマンツーマンで指導していた、それまで半レギュラー扱いであった谷繁元信を積極的に起用し、リーグを代表する捕手に育て上げている[4]。, 1997年は、大矢の施したチーム改革が浸透してシーズン最終盤までヤクルトと優勝争いを繰り広げた。8月に21勝6敗の驚異的ペースで勝ち星を積み上げて首位ヤクルトとゲーム差3.5まで追い縋るが、9月2日の直接対決で石井一久にノーヒットノーランを喫し、翌日も先発田畑一也を3回途中で降板させた野村克也監督の非情采配を前に力尽きた[15]。最終的にリーグ2位の成績を残しながらも解任され、シーズン最終戦後、大矢は選手たちに胴上げされた[16]。, 前年の2006年から外野のレギュラーを務めていた吉村裕基を一塁手へ、牛島和彦監督時代に「クアトロK」と呼ばれていた中継ぎ投手陣の加藤武治と川村丈夫を先発へ、中継ぎ左腕不足の事情から那須野巧を先発から中継ぎへ、2008年のシーズン途中には吉見祐治を先発と中継ぎを掛け持ちさせ、同じくシーズン途中から先発の寺原隼人を、マーク・クルーンの移籍によって手薄になっていた抑えへ転向させるなど、第1期同様積極的なコンバート策を打っている。2007年の那須野はほぼ年間を通して左の中継ぎとして活躍したが[注 4]、加藤と川村はローテーションを守れず、失敗に終わっている。また、吉村の一塁コンバートにより、前年2006年の不調から一転して開幕から復調したベテラン一塁手・佐伯貴弘は年間を通じて外野手として出場することになった[注 5]。, また2008年、2009年は先発投手陣が弱かったため[注 6]、リリーフに頼らざるをえない状況であった。ワンポイント継投が多く、一試合に多数の投手を起用することがしばしばあった[注 7][注 8]。, 投手の起用法については「ベテランに敗戦処理をさせても意味はない(プライドを傷つけられて腐るだけ)」「若い、経験の少ない投手なら敗戦処理でも『投げさせてもらえる』とプラスに作用させられる」という持論を持っている[要出典]。, 正捕手には2007年、2008年に相川亮二を起用した。2008年オフに相川がFA移籍したため阪神からFAで野口寿浩を獲得して2009年に臨んだ。が、運悪く野口がキャンプ中に右肩の腱を断裂してしまい[17]、ルーキーの細山田武史に期待を掛け、積極的に起用していたが、大矢自身はシーズン途中で休養に追い込まれた。, 結果として1年目は4位で終われたものの、2年目・3年目ともに90敗・勝率3割台で、首位とのゲーム差が2年目36.5、3年目42.5と大きく差をつけられての最下位となった。, 『プロ野球の練習法から 新しい「理論」と「実践」を指導 : sports video T&H 』, http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/162184, http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130826-1179162.html, 大矢明彦 “現代型捕手”のパイオニアだった燕の司令塔/プロ野球1980年代の名選手, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大矢明彦&oldid=80030872, 初打点:1970年5月31日、対中日ドラゴンズ10回戦(中日スタヂアム)、6回表に, 1000安打:1981年7月15日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、2回裏に. 日本野球機構(以下「NPB」とする)所属の各球団に登録している選手・指導者の所属を編集する際は、以下の基準を満たすまで絶対に編集しないでください。 大洋ホエールズ(1950年 - 1952年)松竹ロビンスと対等合併大洋松竹ロビンス(1953年)洋松ロビンス(1954年)大洋ホエールズ(1955年 - 1977年)横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年)横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在), 山口県(1950年 - 1952年)大阪府(1953年 - 1954年)神奈川県(1955年 - 現在), 横浜DeNAベイスターズ(よこはま ディー・エヌ・エー ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「横浜」「DeNA」。, 神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍[注 1](イースタン・リーグ所属)の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。, 林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に設立[4] され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた[5]。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる[5]。, 1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市[注 2] は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。, 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[6]。, 社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた[5]。, 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。, 1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他、主に試合は徳山市毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は、浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館オーシャンスタジアムで開催された[7]。, 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[注 3] の該当球団となった松竹ロビンス[注 4] と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。, 1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は興行面の利点から大阪スタヂアムで行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。, 大阪時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。, 12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。球団事務所は川崎市中原区に設置される。, 川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗。首位・巨人と61.5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。, 明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。, ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録。), 前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。, 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、1963年は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。, 1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。 !(2017年3月17日), 祝!プロ野球開幕!今年もみなとみらい線に乗って横浜DeNAベイスターズを応援しよう!, http://www.ohbsn.com/contents/b-spirit-niigata/index.php, https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0310_01.php, http://www.baystars.co.jp/news/2016/07/0706_01.php, http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/08/kiji/K20120508003206980.html, クライマックスシリーズ主催試合観戦権付きチケットなど、9/28(金)〜10/3(水)対象の企画チケットを8/25(土)に発売, 2012年発売『〜感謝、そして夢〜新・熱いぜ!チケット』での「2016年度 クライマックスシリーズ・セ」ご観戦について, http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140620-1320640.html, http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/149712, 『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014』第1弾情報 3年目の今年、地域に根差した横浜銀行がイベントパートナーに決定, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横浜DeNAベイスターズ&oldid=80450072, 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年), クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。, ホッシーファミリー(1993 - 2011) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託すことで表舞台から姿を消すことになった。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。, 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO! 以下の基準は、特段の記載がない限り、NPB球団に所属のすべての支配下登録選手・育成選手、および指導者に適用します。 開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。, 長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。, 4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。, 近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し注目された。しかし、遠藤一彦、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず4位。, 年明けにレオン・リーを解雇、カルロス・ポンセとダグ・ローマンを獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど勢いがあったものの、加藤、田代富雄ら主力が離脱すると選手層の薄さを露呈し[11]、4位に終わり、近藤は2年で監督を退任。, 広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、5位、4位、最下位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、1989年にシーズン5年ぶりの最下位の責任をとり監督を辞任した。古葉は5年契約ながら3年目で辞めたことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている[12]。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、1987年のドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末、ヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋茂雄監督招聘の話は無くなった。古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名が挙がっていたが大洋で2年間二軍監督の経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した[13]。, 序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せた。その後、失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。, 阪神を除く5球団の首位争いの中、4月は首位に立つもその後失速し、5位転落。同年オフの12月25日には前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして神奈川県警察(捜査一課・金沢警察署)に強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕され[14]、年明け後の1992年1月7日に球団を解雇された[15]。またこの事件に伴い川島廣守セ・リーグ会長はNPB全12球団に対し「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが[16]、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日ドラゴンズで球界復帰を果たした[17]。, 前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立されチームも復調し混戦だったリーグ戦で7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが5位に終わり江尻の来シーズンの契約更新はなかった。一方、この年での日本シリーズではヤクルトが西武に敗れて初めて日本シリーズを敗退した為、2005年に誕生し、2013年で日本シリーズに初出場をした東北楽天ゴールデンイーグルスが初めて日本一になるまで唯一日本シリーズを敗退していない球団となった。, 1993年の4月1日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズ(横浜ベイスターズ)に改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された[要出典][注 10]。, チーム生え抜きの近藤昭仁が監督に就任。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。ベイスターズ初年度は5位に終わるが巨人には8年ぶりに勝ち越した。この年限りで斉藤明夫が引退。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。長年チームを支えた高木豊や屋鋪要、山崎賢一、市川和正ら主力選手が大量解雇された。, 獲得した駒田の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用してチームの若返りを図るが、混戦のシーズンの中、結果的に5年ぶりの最下位に終わるが優勝した巨人に唯一勝ち越した。, 結果的に4位に終わるも5年ぶりに中日に勝ち越して12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。のちに首位打者となる鈴木尚典が3番レフトに定着するなど若手が台頭した。しかし、フロントからの近藤に対する監督としての評価はあまり芳しくなく、[要出典]この年限りで任期満了により退任となった。, バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速し、全球団に負け越して5位に終わる。, 権藤博を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めるとチームは浮上しシーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると、勢いも止まり2位で終わったが7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に5年ぶりに勝ち越すが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。監督大矢は2年契約を終えてオフに監督を辞任。, 権藤が監督に昇格。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、阪神に5年ぶりに勝ち越して10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利し38年ぶりのリーグ優勝[注 11] を果たした[注 12]。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが[18]、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また前年怪我のため一軍登板がなかった斎藤隆が復活を果たしカムバック賞 を獲得。シーズンオフにはドラフトで、この年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが獲得できなかった。, ローズが153打点を記録し二冠王に輝く活躍を見せるなどこの年もマシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録[注 13] を更新する。しかし投手陣は川村丈夫が17勝[注 14] を挙げる活躍するものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数がそろわず、3位に終わる。オフには、佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。, ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず2年連続の3位。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団。この年よりファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。, 西武を8度のリーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。シーズンオフには、正捕手の谷繁元信が、森との確執もあり、[19]FA権を行使して中日に移籍した。また、チーム最多勝投手の小宮山もメジャーリーグに挑戦するために退団した。, 1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更される予定だった。しかし、そのニッポン放送の当時の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転して東京放送[注 15] への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。球団オーナーは当時の東京放送社長砂原幸雄となった(詳細はマルハから東京放送への筆頭株主交代の節を参照)[注 16]。これに際し、1978年以降ニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していた、TBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。この年を境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。, チームは開幕から記録的な低迷を続け[注 17]、9月25日に森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされる。このシーズンでの最終勝率は.363だった。投手コーチには森繁和、内野守備走塁コーチには辻発彦と森の西武時代の教え子が就任したが、チーム防御率は3.75から4.09で、チーム防御率はセリーグ中で5位だった。チーム失策も68から81に悪化した。チーム打率、得点、安打、本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。森は3年契約の2年目だったが、この年限りで事実上の解任となる。 2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。, チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約で、ダイエーから若田部健一をFAで獲得するなど大型補強を試みるが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど大きく苦しみ6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分という惨憺たる成績で、シーズン90敗到達は日本プロ野球では1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。, 佐々木主浩が年俸6億5000万円の2年契約を結び5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つが、その後投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続けるが、最終戦に敗れて広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方で前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど一定の成績は残した。山下はこの年、監督を退任した。シーズンオフに一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとってオーナーの砂原幸雄が辞任し、TBS副社長の若林貴世志が新オーナーに就任。, 牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも不調だった三浦をはじめ投手陣が復活し、4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、巨人には東京ドームで同一カード3連勝を記録するなど一度も負け越しがなく16勝6敗と大きく勝ち越した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど新しいファンサービスを試みた。この年限りで佐々木が現役を引退した。, 投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの監督退任を発表。4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。 12月1日、資本金を6億5000万円から1億円へ減資する。「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。この年チーム唯一の2桁勝利の門倉健が年俸査定に不満を持ち、FA宣言をして巨人に移籍した。, 大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。ソフトバンクの若手投手・寺原隼人を主砲・多村仁との大型トレードで獲得し、また巨人の正二塁手だった仁志敏久を1選手プラス金銭のトレードで獲得した。また、FA移籍した門倉の人的保障として工藤公康が入団。移籍組やベテラン勢の活躍で、前半戦は一時首位に立つなど上位を猛追し3位で折り返す。最終戦に敗れシーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年振りに70勝に到達し、村田修一が球団日本人選手としては桑田武以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。, 1月15日、産業能率大学と業務提携することが発表される。ファームの湘南シーレックスの取り組みを、スポーツビジネスの授業に取り入れていくことが目的である。開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた一方でスウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドーム大阪で行われた阪神との3連戦の1度だけで連勝は最も長くて3止まり。この年に飛躍し最多安打を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村といったリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べず、四球が少ない為チーム打率.2655の割には出塁率が低く、前年の日本シリーズを戦った中日と北海道日本ハムと並んで.316と12球団ワースト[20]。しかも折角出塁しても足でプレッシャーをかける事すら出来ず盗塁は37と4年連続でリーグワースト[21] を記録し盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団断トツのワースト。またセ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、168被本塁打とセ・リーグどころか12球団断トツで少なかった阪神(85被本塁打)の倍近くホームランを打たれいずれも12球団ワースト、与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりだったがチーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。セーブも在籍3年間で84セーブを挙げたマーク・クルーンが巨人へ移籍した事で前年はリーグ4位の35セーブだったのが27セーブに減少とセ・リーグワースト。9回の失点も52とセ・リーグワーストを記録する等初回に102失点、4回100失点と序盤で失点を重ねて後手後手の展開を余儀なくされ、四死球で余計なランナーを出塁させては本塁打を浴び、尚且つ三振が奪えず、ゲームを作るどころか勝ち投手の権利を得る5回まで投げ切る事すら出来ない[22] 投手陣が打撃陣と共にリーグ又は12球団のワースト記録を量産し2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と99年のロバート・ローズがもっていた右打者シーズン最高打率.369を塗り替えた上での首位打者を獲得した内川の打率(.378)よりも低く「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事も発生する始末でシーズンオフには一軍ヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、一軍投手コーチの斉藤明雄など4コーチが解任され、石井琢朗、鈴木尚典らチームを長年支えてきたベテランが退団した。正捕手の相川亮二がFA権を行使してヤクルトに移籍。, ワールド・ベースボール・クラシックでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど序盤から低迷。5月18日に大矢の無期限休養(事実上の解任)が発表された。二軍監督の田代富雄が翌日から監督代行を務めたが、チームを浮上させることはできず93敗を喫し、2年連続の最下位に終わる。前年同様一度も貯金はなく、田代は一軍監督代行の職が解かれ、シーズン終了後に二軍監督に再任された。投手コーチの杉本正は一年で解任された。チーム防御率・失点[23]、打率・得点[24] はリーグ最下位に終わった。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。, ロッテのエース清水直行を複数人とのトレードで獲得し、同じくFA宣言をしたロッテの橋本将、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジを獲得するなど大規模な補強を行った。当初の構想では、前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、新外国人投手のクリス・ブーチェックを抑えに起用する予定だったが、ブーチェックがオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。しかし、開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。一度も浮上することもなく9月7日の対巨人戦に敗れて5年連続のBクラスが、9月25日の対中日戦に敗れて3年連続の最下位がそれぞれ確定。9月28日の対ヤクルト戦に敗れてプロ野球史上初の3年連続90敗、10月6日の対阪神戦に敗れて130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。一軍ヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取り1年で辞任。オフに内川がFAでソフトバンクに移籍した。8月には2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。, 9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[25]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSHDとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていた[26] が、実際の交渉は難航。結局10月下旬、TBSホールディングスは住生活グループとの交渉を打ち切り、同月27日TBSHDが2011年度も球団を保有することを発表するに至った[27]。交渉決裂の理由としてはTBSHDおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている[28] ものの、同月28日加地隆雄球団社長は、秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにした[29]。また同日潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった」と理由を述べた[30]。, FAで日本ハムの森本稀哲を獲得。3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に東日本大震災が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している[31]。当初3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響により4月12日に延期された。4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めたが、5月以降低迷状態に陥り、交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず7勝13敗の11位に終わり[32]、7月は一度も連勝できないまま[33]、オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す[34]。後半戦も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)に敗れたことでBクラスが確定し[35]、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れたことで4年連続の最下位が決定している[36]。最終的に47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた[37]。チーム防御率は6年ぶりに3点台だったが2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した[38]。オフに村田修一がFAで巨人に移籍。, 10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エー(DeNA)へ譲渡することで大筋合意がなされたことが報道[39] され、10月22日のシーズン最終戦終了後に監督の尾花と一軍コーチ陣の休養が発表された[40]。11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)及びBS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を、12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)DeNAへ譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)[41]。11月22日、監督の尾花をはじめ6人のコーチの解任が正式に発表された[42]。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された[43]。翌2日球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がり、最終的に横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督等の人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べている。翌6日には当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、12月9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表されている[44]。, TBSホールディングス時代は10年間で8回最下位という戦績を残して幕を下ろした。これは、プロ野球市場で一定期間以上参入した親会社としては他に類例のない惨憺たるものである。しかも5年間連続Aクラスという好調から一転しての暗黒時代であり、親会社としての経営能力に強い疑問符がつけられた[45]。, 親会社変更に伴いユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行う。3月18日には、これまでの球団マスコット、ホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。, 3月30日、横浜DeNAベイスターズとしての初陣となった阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし[46]、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して球団名称変更後初白星を挙げるが[47]、続く4月4日から10日、同月22日から5月1日にかけて2度に渡り6連敗するなどした。交流戦は9勝14敗の10位に終わり、7月7日の対中日戦に敗れて借金20となり自力優勝が消滅している[48]。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初めて同一カード3連勝をしたものの[49]、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ7年連続Bクラスが決定。9月29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するが[50]、136試合目の9月30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続の最下位が決定した[51]。10月7日、対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり[注 18]、東京ドームにおいてはセ・リーグ初の記録となった[52]。最終的に首位巨人とは40ゲーム、5位の阪神にも9.5ゲーム差をつけられ、セ5球団に全て負け越している[53]。, オフに中日を自由契約となったトニ・ブランコ[54]、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサの3人を新外国人選手として獲得した。また、かつてのチームの主力打者であったソフトバンクの多村仁志を含む3選手が、吉村裕基、山本省吾ら3選手とのトレードで加入。多村は7年ぶりの古巣復帰となった[55]。, 交流戦は7勝17敗で最下位に終わる[56]。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、8年連続のBクラスが確定[57]したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、6年ぶりの最下位脱出が決定[58]。最終成績は5位に終わったものの、ヤクルト・阪神・中日のセ3球団に勝ち越したのは実に12年ぶりのことであった[59]。, シーズン途中に大砲のユリエスキ・グリエルをキューバから獲得。シーズンは4月に7勝18敗、勝率.280と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、5月に井納翔一、6月に山口俊、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度の月間MVPを獲得し[60](9月にも山口が獲得し最終的に1シーズン4度[61])、5月から8月まで勝率を5割以上をキープし9月までクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の9月にチームは失速9月27日にAクラス入りの可能性がなくなり[62]、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、2年連続5位が確定した[63]。, オフに巨人からホセ・ロペス、グリエルの弟、ルルデス・グリエル・ジュニアを獲得した。また、ドラフトでは、後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる、山﨑康晃(亜細亜大学)を1位指名した。, 1月16日に球団オーナーが春田真から親会社・DeNAの創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した[64][65]。また、ユニフォームも濃紺から、青色(通称:横浜ブルー)に変わった。4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は、横浜ベイスターズ時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、DeNAが親会社となってからは初の単独首位につく[66]など、序盤は好調な滑り出しを見せた。しかし、交流戦では、全6カードをすべて負け越し[67]、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録[68]。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう[69]。しかし、6月23日の巨人戦で2-7で勝利し、連敗を12で止めた[70]。7月に元メジャーリーガーのデュアン・ビロウを獲得した。交流戦後の混戦の中6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。前回優勝の1998年以来となる、前半戦首位ターンとなった[71]。しかし、後半戦に入るとじわりじわりと順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。期制直後に最下位を脱出するも、終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅[72]。10月3日、シーズン最終戦(巨人戦)で敗れ3年ぶりの最下位が決定した[73]。前半戦を首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった[73]。また本塁打数こそリーグ最多の112だったものの、リーグワーストのチーム防御率3.80、総失点598、ワイルドピッチに至っては1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68個を記録するほどだった。また、黒羽根、嶺井、高城を起用するなど捕手も固定されず、11個のパスボールも記録。観客動員数は好調で球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑監督は低迷の責任を取る形で退任。これにより4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた[74]。後任監督には球団史上初の外国人監督となるアレックス・ラミレスが就任することが発表された[75]。神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。, 10月21日、ラミレス新監督の就任が正式に発表された[76]。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表[77]。ドラフトでは、即戦力として期待された左投手の今永昇太(駒澤大学)を1位指名。課題であった捕手にもNTT西日本の戸柱恭孝を迎えた。, 前年11月に開始されていた、本拠地である横浜スタジアムの運営会社・株式会社横浜スタジアムの友好的TOBがひと段落し、1月20日付けで横浜スタジアム運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を、総額74億2500万円で取得した。このため、運営会社は同月28日付で、横浜DeNAベイスターズの子会社(ディー・エヌ・エーの孫会社)に名義を変更。, キャンプ前に新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリックを獲得するも、



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